シンプルな日々

"Less is more" を目指していきたい♪

レッツ・ダン...シャリ!

戦争を体験した現在80代+の親世代

疎開先でお芋を分けて食べ、着るものは継ぎ接ぎあてては長持ちさせた...と

そんな生活をした事があるからだろう

『モノ』に対する執着はなかなか捨てられない

戦後の経済成長時代を生き通して

『モノ=豊さと安定』 を実感したのだから 

 

ところが

戦争を知らない私達の中にもその価値観は植えられている

モノを大切に長く使うと言う姿勢は素晴らしい事だが

『もったいない』『捨てたらいけません』で、何でもかんでもためてしまう

その上、

物質主義さまさまのバブル時代

ブランドに振り回され、機能性より知名度に乗らされたり

(一体ひとつの体で幾つのハンドバッグに靴を買えば足りるのか世代)

そして

レス・イズ・モアのコルビュジエは崇拝出来るのに

自分の家には『モノ』が溢れるほどあるではないか

 

一体『モノ』には何の意味や価値があると言うのだ

 

去年の出来事...

他界した義親の家を片付ける事になり

屋根裏部屋とガレージに入ってビックリ仰天した事があった

恐ろしい位にモノがびっちり詰まり溜まっていたからだ

次々と出てくる紙段ボール

書類、古写真、包装紙、雑誌や本で紙ダニの楽園化

食器類や器具類は黄ばみやカビの研究所まっしぐら

家具類は埃とかサビがついてて

文句言う暇なく必死で大掃除しながら片付けをした訳だ

そして初めて痛感したのは

        断捨離の重要さ!

同時に

『我が子には絶対こんな想いさせませんっ!』と誓い

『生まれてくる時と同じ、死ぬ時もひとり』だと

あの世には何一つモノは持って行けないのだと再認識

 

そこで年末から始めてるのが

我家の断捨離強行合戦!

不必要なモノは覚悟して思い切り手放す、手離させる!

 

それって案外難しかったりするけど(苦笑)

ただ繰り返し

『今の自分達には何が必要なのか』に着目して

『モノは減らし増やさない』サッパリとした生活目指していこう

そう決めてます

 

すると気持ちにも変化と言うか

少しずつ余裕が持てるようになったのか、気分が軽くなってきたかな

あっ、それはもしかしたら

お掃除がし易くなったからかもしれない(アハハ)

 

こだわり

毎年欠かさず作るおせち料理

 

日本に居る姉妹達は

「あなたの食物に対する執着心てすごいわね」

なんて

内面ブスが言いそうなことを平気で今年も口にする

 

年老いた両親は他所でお節を注文してる

実家に住むも知らんぷり

我家のリア王レベルは相変わらず進行形(苦笑)

 

確かに

無い物ねだりなのかもしれないが

海外にいるからこそわかる

日本の様々な文化やしきたりの素晴らしさはあるもので

 

デパ地下やコンビニ無しでも

庭で日本野菜が育てるなら良とする...(しかない)

 

自分でサクッとなんでもこなせば

不憫さ感だって減っていくのだが

段々それも面倒臭くなる今日此頃

 

余裕が無いからなのか

始めから望み枠が大き過ぎるのか

 

やっぱり

小さなことでも感謝の念を忘れずに...と

言うことなのでしょうか? ね

 

 

ありがとう

 

 

 

いじめの正体

メディアのイベントになりつつある

アメリカ大統領弾劾調査

 

内容や証人の話は置いといて

共和党議員の質問や態度そのものは

『意地の悪い、いじめっ子』

にしか見えない

 

 

民主党が正しいとか

誰がいつどんな違法行為をしたとかは置いといて

様々な経験を重ねてきた

肩書きある大人達

地位と権力と経済力ある大人達

そんないい大人達が

大声を出しながら

きつい言い方で相手を責め立てる

攻撃的な言葉と目つきで

圧力マックスに精神的ストレスを与えまくる

 

いい歳こいた大人でさえ

感情に振り回され

理性を働かせず

目の色変えて顔色変えて

いじめを加える

 

滑稽なはずだが、腹ただしくなる

 

どちらかといえば

日本では陰険ないじめが多いかもしれない

それに比べ

この国の大人のいじめは

肉食動物を例えに使えるほど

面と向かって食いかかっていく

 

『いじめ』行為の奥に潜んでいるのは

間違えなく『不安』であろう

そして

その不安が大きければ大きいほど

いじめの態度はエスカレートしていく

 

大人社会にも無くならない『いじめ』

一体、解決策はあるのだろうか

 

 

 

泣くということ

ここ僅か数週間で

訃報が続いたからだろうか

人生には必ず終わりが訪れるものだと

ひしひしと感じる様になってきた

 

涙を流すこと自体は自然な生理現象であるし

悪い事でも弱さとか恥じる事でも全く無い

号泣セラピーなんてのが存在する様に

逆に泣く事により

心が楽になり、ストレス発散、気持ちが落ち着き

心の健康さえ良くする効果もあったりするのは理解できる

 

だが時には

泣き止む事が難しくなる場合もあり

立ち直りに時間がかかる故に

どうしても『泣きたくは無い』という思いに駆られたりもする

 

そして

大人だからこそ軽々しく涙は溢せない

そんな概念も

遥か昔に押しつけられ根強い価値観となり捨てられないのも事実かもしれない

 

中高年になれば

ストレス社会で貯蓄された疲労というものが

完全に自律神経を疲れさせ

大脳の中枢神経の機能も衰え

肝心な感情コントロール能力が低下するのを避けられないし

 

そして

泣く自分を受け止めてくれる人達がこの世から消えていく

悲しい思い、寂しい思い、辛い思い、そして嬉しい思いも

涙で表現する事も複雑化していきそうだ

 

 

今まであった泣き場所が

徐々になくなり寂しく思うのは

思う存分、泣いてこなかったからなのかなと

我儘な視点ではあるが

チョッピし考えてしまった

 

 

 

人生の優先順位

決して珍しく無い話ではある

知り合い夫婦二組が離婚をした

所謂、熟年離婚というやつだ

 

付き合いも長い夫婦だっただけに

友達を失った感と言うのがあるのは仕方ない

気の合う夫婦友達というのは

この歳になると貴重な存在になっていくのになぁ

 

彼らが離婚した理由というのは

『片方の不倫』そして『性格の不一致』と言う事らしい

だが

長年もの間、家族を共に築き上げて来た同士も

シリコンバレー特有の一攫千金を手にした結果

金銭的の余裕が齎せす『悲劇』となった例かもしれない

 

お金というのは矢張り人を変えてしまうのか

或いは

自尊心が高いと我儘奔放でもいれるのだろうか

 

離婚後間も無く

男性側は二人とも年の離れた彼女を紹介して来た

何というか...

わかり易いと言うのかな

カップルとは言え

如何にもどこぞで『購入』して来たかのような

そんな不自然さが空気に漂っていた

 

夫婦とは何なのか、家族とは何なのか

果たしてその答えはあるのだろうか

いや、答えを求める事に意味があるのか

そんな風に自問し困惑しそうな自分に嫌気が差した

 

何を指針に、何を重きに置き

人は幸せになる為の生き方を選択するのだろうか

 

 

 

 

コンプレックス

他人の話を好きな人は

結構どこにでもいるもんで...

暇してる御年寄に限らず

専業主婦の集いや、会社の同僚にも、ジムの顔見知りにも

いつでも何処かに

大抵『〇〇さん』の話をしたがる人は必ずいて...

 

「あの人はお金持ちよ〜』

『あの人は浮気してるみたいよ〜』

『あの家庭はめちゃくちゃだってよ〜』

『あの人は外面が良いだけなのよ〜』

 

そんな感じでレパートリーもキリが無いが

そう言う人に限って

自らの抱えたコンプレックスの表れを

『〇〇さん』に例えて話してる気がする

本当のところは

自分のコンプレックスを他人に重ねて見るもんだから

「あーだ、こーだ」を言いたくなるのであろう

 

自分が幸せなら、満たされた生活を送ってるなら

他人への興味など然程湧かないものだ

 

そこで私が他人に気になるところは

退職といったテーマだろうか

「〇〇さんが早期退職した」と言う話には

非常に興味が湧いてしまう

そんな今日この頃だ

 

更年期

こればかりはどうにもならない

急に訪れる冷えや発汗

不眠や憂鬱気分に直ぐ陥ったりと

 

少量のホルモン治療を勧められ

服用してから暫く経つが

あまり変化がみれず

体重なんて、増えるばかりで落とせない

 

エストロゲンが減少する事で

自律神経に影響が出るのは承知の助で

そこへ

生活習慣の改善だ、食事の改善だと言われても

体調が優れない最中に癒される事まで

減らされてしまえば

余計に凹んでしまいそうだ

 

まずは出来る事から始めればいいのだろうが

根底にあるストレスが無くならないと

何をやっても続かない事を

この歳になると知ってしまってるから(苦笑)

どうすれば良いものか...と

堂々巡りで1日は終わる